乙姫
1
頭の中に『声』が響いたとき、アイリーンは寝ぼけてなどおらず、意識はむしろはっきりと覚醒した状態だった。
その日は昨晩までの悪天候を引きずり、日の光は射してはいなかったが、まとわり付く湿気が体感温度を5度ほどプラスして、空気はうだるような暑さをはらんでいた。
雨水の流れた跡の残る窓から見える景色はぼんやりと霞がかかり、庭先に咲いたカリゴラの紅い花が重たげに風に揺れている。
生い茂る雑草の中で頷くような動きをするカリゴラから、視線を灰色がかった空に移すと、ベッドから身を起こしたばかりのアイリーンは眉根を軽く寄せた。
雨の降る日、彼女は傘を差さなくてはならなかった。
それは、意思で物体に影響を与える力……念動力を持たない身であることを公に証明しているようで、アイリーンには屈辱でしかなかったのである。
この星……テラ語で「61α」と呼ばれている……の人間は、9割以上が念動力を使え、雨など念じただけで頭の上で遮断することができるのだ。
この他にも離れた場所へ瞬時に移動できる空間転移能力も、殆どの人間が持っているのだが、こちらもアイリーンは使うことが出来ない。
したがって、アイリーンは、念動力も空間転移も使えない人間が雨に濡れないようにと作られたアイテムを差さなくてはならないのだ。
最近では、傘大国ともいうべきテラ(テラ人は何一つ能力を持たないため、アイテムに頼らざるを得ないのだ)からお洒落な傘が大量に輸入されるようになり、機能面のみ追及した従来の61α製のものよりも洗練されたデザインが多いことから、ちょっとしたお洒落として、能力を使える人間も雨の日に差したりするようになっていた。
しかしそれは、能力を持つ人間がわざとするからお洒落になるのだ、とアイリーンは考えていた。
そういう考えが卑屈であることは重々承知なのだが、己が「偉人」になれる可能性を秘めているだけに、61α人として当たり前かつ機能的な能力の欠如がひどく悔しいのである。
少女は、ほうっとため息をついた。
息の当たった部分の窓ガラスが白く曇り、視界をより不鮮明にした。
学校に行かなくてはならない。
あと10分もすれば、隣に住む幼馴染が迎えに来るはずである。
少女の幼馴染は、かなりの念動力の使い手で、8種族連盟ことエイトコミューンの正式な審査で、最高ランクのAを認定されていた。
ビルを一瞬で瓦礫に変えることができるほどの能力者にとって、雨を遮断する念の屋根を二人分に広げることは、手を上にかざすよりも簡単に出来るくらいわけないことであって、幼馴染の少年はいつも、アイリーンの頭上に屋根を広げようとしてくれるのだが、彼女はその都度断っていた。
「情けをかけられているようでムカつくから」というのが理由らしい。
このようなアイリーンの少しひねくれた思考は、温和で感情の起伏が少ないという性質をもつ周囲の人間には、あまり見られないものであった。
同じ判を押したような人間の群れの中で、アイリーンの存在は浮いていた。
溶け込もうと頑張った時期もあったが、自分を変えることも押えることもできなかった。
彼女に優しく接してくれる者はたくさんいるのだが、それでも彼女は孤独だった。
周囲の人間が当たり前に使える能力の欠如。
性質の違い。
そしてなにより、彼女は純粋な61α人ではなく、テラ人との混血……エイリアンハーフだった。
テラの管轄地域では、エイリアンハーフは蔑視と迫害の対象である。
それは、純血の61α人よりも強い能力者に対する恐怖、そして純血の61α人よりもさらに感情の起伏の少ない、というより無感情の人間に覚える薄気味悪さからくる差別であった。
61αでは、そのような差別は社会的に存在しない。
能力に対する理解があったし、なにより混血児の性質は、61α人のそれが濃くなってしまっただけのことであるからだ。
だから、61αで暮らすアイリーンは、61α人たちと全く同等の扱いを受けて育ってきた。
テラ管轄地域で暮らすエイリアンハーフからしてみれば、信じられないほどの好待遇なのだが、アイリーンは、今自分が身を置く環境が嫌で嫌で仕方が無かったのである。
一般的な61αとテラの混血児の性質をもたないことが、彼女の最大の不幸だったのだろう。
と、窓にぽつりと水滴があたった。
一つ、二つと数えようとしているうちに、水滴はあっという間に数を増やして、雨音が窓ガラスを激しく叩くようになった。
雨水は瞬く間に窓の表面に滝を作り上げ、外の景色を水に浸す。
アイリーンは学校に行く気を完全に無くしてしまい、寝台にもう一度寝転ぶと、枕もとの棚に積み上げられていた本のうち、深緑色の表紙の一冊を手に取った。
タイトルは「ファノア」。
今から1100年前に生まれた、61αの4大偉人の一人「ファノア」の生涯について記した偉人伝である。
小さいころから何度も繰り返し読み、ぼろぼろになってしまったそれにもう一度目を通そうかと本を開く。
その瞬間、唐突にそれは訪れた。
『怖くないですか?』
突如聞こえた声に、アイリーンは驚いて身をすくませた。
本を置いて部屋の中を見回す。
電灯をつけていない室内の光源は窓の外からの光のみだったが、曇天のため薄暗く、陰になる部分が多かった。
とはいえ、ベッドと小さな机、そして洋服ダンスを置いただけで、他に家具を置くスペースも無い狭い部屋に、人が隠れる余地など存在せず、確かにアイリーンの部屋には彼女以外誰もいなかった。
しかし、空耳かと考えるにしては、あまりにも明確に聞き取れた。
「どこに隠れてるの」
自分を落ち着けるように口に出して言ってすぐ、アイリーンは自分の問いが愚問であることに気付いた。
前述したとおり、9割以上の61α人が念動力や空間転移などの物体に作用する能力保持者であるが、残り2、3%ほどの少数の人間は、精神系の能力者である。
予知、過去視、イリュージョン、精神操作など種類は様々あるが、たった今聞いた声は、読心能力者……テレパシストが発した声だと思い当たったからである。
『怖くないですか?』
『声』はもう一度、耳を通さず頭の中に暖かく、優しく響いた。
大河の緩やかな流れを彷彿させるそれは、絶大な存在感を放っていた。
性別も年齢も判別できないが、声がはらむ力の強大さは感じ取れる。
アイリーンの学校のクラスメイトに、テレパシストが一人いたが、彼女が心に直接語りかける声はもっと希薄だった。
テレパシストではないアイリーンが気づくほど、今の『声』の持ち主は、明らかにクラスメイトよりも格が数段上のテレパス能力者なのである。
そしてその『声』は、他の能力も含んでいるようだった。
声の魔力にアイリーンは気付いたが、抵抗する気力は起こらなかった。
聞く者に有無を言わさない圧倒的な力は、すでに少女の精神を浸食しつつあったからだ。
『怖くないですか?』
なおも問いかけられ、アイリーンは問いの内容を意識して考え、そして唐突に恐怖に襲われた。
何に対しての恐怖を問いかけられているのか全くわからなかったが、アイリーンの中にある恐怖が、『声』に呼応したかのように湧きあがったのである。
震えが全身を駆け巡り、少女は手の中にあった本を歪むほど強くギュッとつかんだ。
世界を敵に回したような感覚だった。
どこにも逃げることができず、誰の元にも還ることができない。
見知らぬ土地にぽんっと放り出され、そして強大な敵意にさらされる、そんな感覚だ。
何故自分がこんな感情に襲われなければならないのか。
恐怖の対象を探したが、恐慌状態にある精神でまともな思考が出来るはずも無く、正体不明の何かに追い詰められ、ただただ足掻くしか出来ない。
『声』によって恐怖は誘発されたのだが、アイリーンは気付かなかった。
気付いたとしてもたちまちその考えは封じ込められていただろう。
感じる恐怖についてしか思考が働かないように、『声』は仕向けていたのだ。
アイリーンは恐怖から逃げ出したかった。
アイリーンは恐怖から身を守りたかった。
アイリーンは恐怖を退けたかった。
『怖くないですか?』
『声』は暖かく、優しかった。
正体不明の恐怖の対象はアイリーンの周囲でぐるぐると渦巻いていたが、それらを遮断し、包み込むように『声』は響いたのだ。
一筋の光明だった。
暗い夜道で見つけた家の明かり。
それに恐る恐る手を伸ばす。
完全に侵食され、アイリーンは頷いた。
「……怖いです」
弱々しい少女の声に、数秒後、『声』は答えた。
:::
玄関脇のベルに手を伸ばす前に、ドアは勢いよく開け放たれていた。
中から姿を現した幼馴染のいつにない動転した様子に驚きつつも、少年は「おはよう」と朝の挨拶をした。
「どうしたんだ、一体?」
「どうしたもこうしたもないわ!中に入って。話があるの」
「学校に遅刻する。行く道すがら話を聞くから、早く服を着替えて用意してこい」
「学校!?何を悠長なこと言ってるの」
寝巻き姿のまま、アイリーンは興奮した面持ちで少年の腕をつかむと、家の中にぐいぐいと引っ張った。
「そんな場合じゃないのよ!人に聞かれたら困る話なのよ。ほらウーヴェ、早く中に入って!」
こんなところをご近所さんに見られたほうが困るんだけど、と思いながらも、赤銅色の髪をした少年……ウーヴェは渋々といった表情で、幼馴染の少女の家に足を踏み入れる。
遠くから見ると僅かに傾いた木製の古い家屋が、アイリーンの住む家だ。
ウーヴェが一歩踏み出すたび、床が耐えるようなうめき声をギシギシとあげる。
玄関を入ってすぐ右、靴箱の手前の床は、新しい板を打ち付けて修復してあるのだが、これは、1ヶ月ほど前にアイリーンがうっかり床を踏み抜いて、地下の食料品置き場まで落下してしまった恐怖の落とし穴(腐った木の床)の忌むべき痕跡である。
納屋と勘違いされても仕方の無いあばら家は、狭い上に家具や生活用品を含めた様々なものが散乱し、先ほどから降り始めた雨にうたれ、あちらこちらの天井から水を滴らせている。
幼馴染の少年はその有様を涼しい眼差しで一瞥すると、何も言わずに家の上に念の屋根を広げた。
余命いくばくも無いこの家の寿命は、僅かだが延びただろう。
おんぼろさを考えると焼け石に水だが、ごく一般的な61α人の気質を備えて生まれたウーヴェは、惨状を前にして何もせずにはいられなかったのだ。
玄関のドアを衝撃を家屋に与えないように、少年がゆっくりと閉めて振り返ると、アイリーンが腕を組んで勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
アイリーンは、61αでの基準でも美しい少女である。
年齢は数日前に17歳になったばかり。
緩やかにウェーブのかかった金髪は背まで届き、白皙の輪郭の中には絶妙なバランスで目、鼻、口が配置されていた。
穏やかな、どちらかといえば気弱そうな容姿に分類されるのだが、見るものにそう感じさせないのは、彼女の目が持つ意志の輝きのためであろう。
アイスグリーンの瞳は、彼女が持つ生命力を反映しているかの如く、いつも強い力を放ち、見る者全てを魅了する。
それが彼女の能力であることを知るのは、ごくわずかな人間だけだ。
「いい?今からする話は他の誰にも話しては駄目よ」
「君のお父さんはいないのか?」
「昨日の夜から仕事で、昼まで帰らない。話をするのはウーヴェにだけよ」
「わかった」
アイリーンの目の力を知る少年は、訝しがりながらも約束した。
この家の狭い空間には、キッチンと狭い浴室、トイレ、アイリーンの部屋、そしてアイリーンの父親の部屋がぎゅうぎゅうと詰まっている。
清楚な外見の少女が住んでいるとは考えられないほど、汚れた皿や食料品袋が散乱したキッチンにウーヴェは招き入れられたが、この惨状もいつものことなので、少年はだらしがないと思いつつも最早口には出さなかった。
今日、学校が終わった後でもう一度来て、家の掃除をしてやらなければ。
十数年来のつきあいで、隣家の家の掃除を任務と思っているウーヴェは、ごく自然にそう思った。
少年が軋む椅子に腰掛けると、ウーヴェの親切心に全く気付いていないアイリーンはテーブル越し向かいに座り、口の端を上げてえくぼを作った。
「ついさっき、私、『声』を聞いたの」
「何の声?」
「わからないわ」
眉をひそめるウーヴェに、アイリーンは恍惚とした表情で答える。
「頭の中で突然響いたの。とっても素敵な声だったのよ」
「へぇ」
「きっと人間じゃない、何か大きな存在の声に違いないわ」
「神の啓示だとでもいうのか?」
「そうよ」
「そうよって……そんなことがあるわけないだろう」
冗談で口にしたことへ、真面目に頷く少女。
予想を超えるアイリーンの発言にひきつつも、ウーヴェは努めて冷静にたしなめようとした。
「何を企んでのことかは知らないが、十中八九、誰かテレパシストのいたずらだろう。関わらず放っておくことだな。あまり煩かったら先生に相談しろ」
「違うわ」と、アイリーンは頬を膨らませた。
「テレパシストの仕業だとしたらそうとわかるわ。サイに長けた貴方よりも、ESPに対する造詣は深いつもりよ」
「それは知ってる。しかしAランクのテレパシストともなれば、君にテレパスだと気付かれないように声を発することもできるだろう」
「ああ、そうじゃなくて!『声』自体はテレパスだったかもしれないけど、『声』を発したのがテレパシストじゃないって言ったの!」
「テレパシスト以外の者が、テレパスを使うなんて聞いたことが無い」
「だから、神よ」
「テレパシストの仕業ではないとしたら」
アイリーンの返事が聞こえなかったかのように、ウーヴェはかぶせて言った。
「君の心が産んだ妄想じゃないのか?」
「あの『声』が!」
ほつれた金髪を指で弄くりながら、アイリーンは傍らの幼馴染に嘲笑のような、哀れみをこめたような視線を送る。
「ウーヴェにも聞かせてあげたい。聞けばわかるはずよ。人の頭の中で創造できる類のものじゃない。妄想で創造できるものなら生みまくって、日がな一日中聴いてるわよ」
アイリーンの発言に、ウーヴェは、ついに行くところまで行ってしまったか……とため息をついた。
前々から少々というかかなり変なところのある子だとは思っていた。
61αとテラのハーフにしては珍しく、テラ人の性格の特質をひいてしまったのであろう彼女は、普段は何事にも冷めて大人びた態度をとっているのだが、内心溜めていることが多いらしく、たまに弾けてはとんでもない事をしでかした。
しかも自分に火の粉が降りかからないよう、周囲の人間にやらせてはそれを高みで見物して「ふふふ」と楽しむのだから性質が悪い。
校庭の木の枝を全て切り落として丸裸にしたし、港につないであった船のもやい綱を解いて沖に流してしまったし、川にピンクの絵の具を溶いた水を大量に流した。
全て計画したのはアイリーンだったが、実行したのは他の男共だったのである。もちろんこれらの件は実行犯の男たちが自分たちがやったと自供したので、アイリーンは叱られたことすらなかった。
今度は何をやらかすのやら……テンションの高い幼馴染に嫌な予感を感じつつ、ウーヴェは興味が薄そうな声音で言った。
「それで、その声は何と言ったんだ?」
「そう、それよ」
アイリーンはウーヴェに顔を近づけ、声を潜めた。
「『味方を作りなさい』、と『声』は言ったの」
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