第6章 DR.JEKYLL AND MR.HYDE
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泥の中に沈む意識に、何かが触れた。
触れた部分から徐々に波紋の如く覚醒が促され、細波が広がるごとに、
意識をつかんで離そうとしない執拗な重たい泥に軽やかな振動が伝わり、
濁りが振り落とされ透明度を増していく。
泥が水に変わるにつれ、捉えられていた意識は自由を取り戻し、身動きが取
れるようになっていった。
しかし、水は酷く冷たかった。
冷気に撫でられたように、腕や背中に寒気が走る。
また、意識に何かが触れた。
それが自分の名を呼ぶ声だということに気付いた。
誰かの声で目を覚ますなんて久々だ。
3年前のあの日、母親が眠る自分を揺り起こして、旅行の土産は何が
いいかと微笑みかけてきた。
寝ぼけながら何かを頼んだ覚えはあるが、良く覚えていない。
あの笑顔を最期の置き土産に、母は父と共に2度と帰ってこなかった。
水はいよいよ冷たさを増し、それにつれて全身の痛覚が好き勝手に自己主張をし始める。
特に左半身を襲う激痛は凄まじく、頭痛と共に胃の不快感をあおった。
再度自分の名を呼ぶ声に苛立ちが混じったことを感じとり、笛吹はそろそろと
重いまぶたを持ち上げた。
「・・・・・・?」
目は開いたはずなのだが、閉じていた時と何ら変化のない、真っ暗闇。
ひとかけらの光すら存在しない、四方八方ただ、黒一色。
「・・・・・・変わんないし・・・・・・」
「何が?」
予想以上に間近から、聴き慣れた声が聞こえた。
顔の真正面に当たる位置で、声からしてかなり近いところにいるのだろ
うが、その姿は暗闇に沈み、見分けることは全くできない。
ただ感じるのは、酷い血の臭いと、少し距離をおいたところから発せら
れる人体の温もりだけだった。
「・・・ルーク?」
「ルークじゃない」
拗ねたような口調である。
「は?何言ってんだお前、ここどこ・・・ッ!」
動こうとした笛吹は、左半身から広がった激痛に顔を歪めた。
「ッつーー・・・・・・!!」
「左腕、左大腿部にひどい傷があるよ。そりゃ痛いさぁ」
「なに嬉しそうに話してる、おい、ルーク!」
「ルークじゃないって」
笛吹が声がする辺りに見当をつけて、痛くない右手をゆっくりと伸ばすと、
指先に何か温かいものが触れた。
「暗闇の中で人の鼻の穴に指を突っ込む趣味があるとは知らなかったなぁ」
「・・・・・・え、うわっ、汚なっ!!」
笛吹が慌てて手を引っ込めると、肘が服越しに何かごつごつした土のようなものに当たった。
背中の感触と足の下に何も感じられないこととあわせ考えてみて、どうやら
自分は寝かされた状態にあると笛吹は気付いた。
「汚い言うな。お前が勝手に入れてきたんだろ?」
「暗くて見えなかったんだ・・・・・・おい、それよりここはどこだ?」
おそらく顔を覗き込んでいるのだろうルークをどけるように、笛吹は顔の前あた
りで手をひらひらさせると、近くにあった気配がすっと後ろに下がったような気がした。
右腕で支えながら上体を起こす笛吹に、少し離れたところから声がかけられる。
「崖の下だよん」
笛吹は今更ながら自分の耳を疑った。
「だ・・・だよんって・・・ルーク、なんか変だぞ・・・?」
「だぁかぁら!ルークじゃないって言ってるじゃぁないか」
「じゃぁ誰なんだ!?」
暗闇と激痛と分けのわからないことを言うルークに、笛吹がパニックを起こし始めた。
「なんでルークの声なんだ?どうして俺は怪我をしているんだ?この崖
はどこの崖なんだ?暗いところにいると見せかけて実は俺の目が見えなくなっ
たのか!?空はどうして・・・」
「うるせぇ!!」
教えておじいさん!と笛吹が言い出さないうちに、暗闇から伸びたげんこつが頭
をボカッと殴った。
「ま・・・まさかお前につっこまれる日が来るとは・・・・・・」
頭を押さえて縮こまった笛吹を無視するように、ルークではない青年はな
にやらごそごそとし始めた。
「・・・・・・何してるんだ?」
笛吹の問いかけに答えるように、かちりと乾いた金属音がして、目の前
に温かな小さな炎が灯る。
「・・・あ・・・」
「見えるかい?だとしたら少なくとも目はおかしくないんじゃない?」
ライターの火に照らし出され、オレンジ色に浮かび上がるその顔は、紛れもな
くスペシャルスカッド副隊長、ルーク・カースレインのものだった。
しかし。
「笑ってる!?眉根にしわがない!?誰だお前?!!」
光に慣れない目の痛みと、無気味に笑うルークの顔に対する怯えから、
笛吹はまたも目に涙を貯めた。
対する銀髪の青年は、笛吹に向かい合うように胡座をかいて座り、にこに
こと邪悪な笑みを浮かべている。
「あれ?ルークじゃないってわかる?」
「さっきからおまえ自身そう言ってるだろ」
「いやさ、てっきり『やっぱりルークじゃん!』とか言うと思ってたからなぁ・・・・・・ふーん」
「ふーんって・・・で、お前は誰なんだ?」
目元の涙をさりげなく拭きながら怪訝そうに言う笛吹に、銀髪の
青年は眉根をよせずに嬉しそうに笑った。
「ルークのもう1つの人格」
笛吹はゆっくり頷いた。
「・・・・・・ああ・・・・・・そうだったのか・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・それだけ?」
ルークの時より少し高めの、それでも低い、がっかりしたような声が沈黙を破った。
「は?二重人格なんだろ?エイリアンハーフでは珍しいことじゃない
。これで納得がいったよ」
「・・・・・・もっと反応があってもいいんじゃない?」
急に落ち着きを取り戻した笛吹の様子に、ルークのもう1つの人格
は何故か少し不機嫌になった。
「『なんだって〜〜!?』とか叫ばないのかい?」
「叫んだらよかったのか?そりゃ、5重人格くらいあったら叫んだかもしれないけど」
「オレが怖くないの?戦闘狂で殺人狂な性格なんだよ?」
しつこく食い下がる銀髪の青年に、笛吹はいつもの無表情を被って淡々と返す。
「カストル人はみんなそうだろう。変わってたのはルークだ」
「そう、つまりオレはあんたを今すぐにでも躊躇うことなく殺すことがで
きるんだよ?わかってる?怖くならないの?」
「お前の笑い顔が怖いだけかな。一応俺もそう簡単には殺されないくらい強いだろうし」
「強い?あんたが?」
嘲るように銀髪の青年が声を張り上げた。
「あんなへぼい攻撃を避けることもできずに気絶して、オレに助けられて
やっと生き長らえたあんたが?へぇ!!」
これは笛吹の自尊心を深くえぐった。
「・・・・・・試してみるか?・・・・・・」
搾り出したような低い声に、「ヒャッハッハッハ」と馬鹿にした
ような笑い声が覆い被さった。
「無理無理!無理しなくてもいいんだぜ?!オレはルークの見たこと、感じた
こと全てを知っているけど、あんたが強いところを一度だって見たことがない!
なんであんたが隊長なのか、全くもって不思議だ!!重力制御なんて発動する前に
首切っちゃえばお終いなんだからねぇ!負けるってわかっていてやりたいのなら、
まぁこちらも拒む理由はないんだけど、あんたが死んじゃったらルークがそれなり
に悲しむと思うんだよねぇ。だってあんたさ、あいつのさん・・・・・・」
笛吹が動いた。
緩慢な動作で銀髪の青年のほうへと身を乗り出し、痛みに震える左手を地面
に突いて、身体を支える。
非常にゆっくりとした動作だったので、戦闘狂の青年は判断に窮し、言葉を
止めると、接近する藤色の双眸を注視した。
長く量の多い睫毛が、くっきりと美しい二重まぶたに濃い影を落としている。
金縛りにあったように動けない銀髪の青年の手にひんやりとした冷たさだけを残して
、血の気の失せた白い手が火の灯ったライターをもぎ取り、地面にかたりと置いた。
スイッチをもう一度押さない限り消えないライターの火は、谷間を吹き抜ける
静かな風に身を震わせながら、冷たく湿った地面を焦がす。
光源が低い位置に変わり、二人の顔にかかる影が一気に勢力を増した。
「俺は・・・」
笛吹の手が自分の胸元に向かって伸びたことを感じたが、銀髪の青年は動けなかった。
「この手一本で」
手のひらが、返り血を吸って重くなった上着に押し当てられる。
「お前を殺すことができるんだぞ?」
この世のものならぬ美が、冷たく光る双眸を細めてにっこり笑い、そして手
のひらに力をこめて、分厚い壁のような胸板をとんっと軽く、下から上へ押した。
「ウソこけーーーーーーーーーッ!!!」
銀髪の青年が我に返って叫んだのは、彼の体が地面から5メートルも離れた時だった。
「何が手一本だ!!顔と能力使ったくせに!!!」
「顔じゃない、頭を使ったんだ!」
笛吹はルークの体にかかる重力を無にしていた。
ルークの身体は押された結果、止まることなく永久に移動運動を続ける。
「そのまま大気圏突き破って宇宙に出て破裂してしまえ!!」
笛吹の放った悪役顔負けのセリフは、ルークのもう1つの人格に、生まれて初
めて恐怖という感情を呼び起こした。
「待て!俺はこんな死に方イヤだ!!堂々と戦って切り裂いて遊んで滅茶苦茶
にしてから血に塗れて死ぬんだ!!だから待てったら!!」
ライターの光がどんどん遠ざかるにつれて、闇が身体を押しつぶし始める。
「そんな目に遭うとわかって誰が待つか。死ぬのが嫌ならさっさとルークに変われよ」
「なんだよなんだよ!!みんなしてルーク、ルークって!!!どうせ俺は嫌われもんだよ!!」
先程までとうって変わって子供じみた喋り方をする青年に、笛吹は少し眉をひそめた。
「別に嫌いなんかじゃない。ただルークの方が、少しばかり無害なだけだ」
「無害!?馬鹿なだけだろ!?」
「戦闘狂で殺人狂よりは危なくない・・・・・・」
「でもお前を助けたのはオレだ!傷の手当てだってオレがしてやったんだ!!」
「仲間なんだから・・・・・・それが当然の行動・・・・・・」
ふいに笛吹の語尾がため息に変わったかと思うと、宙に浮かぶ青年の身体に重力が戻った。
突然の墜落感に驚くこともなく、1回転して体勢を整えると、ライターの明かりを
頼りに地面に着地する。
「ふぅ・・・」
数秒間だが無重力体験をした青年は、足の下の地面の感触を確かめながら早鐘を打
つ鼓動を落ち着けると、頭を抱えてうずくまる笛吹にゆっくり歩み寄った。
「・・・殺すのか・・・?」
近づく足音に気付いた笛吹が、脂汗を額に滲ませながら顔を上げた。
「今なら確実に殺せるぞ・・・・・・」
こめかみを貫く激痛に耐えながら、強張った笑みを浮かべる笛吹に、何か言おうと
口を開きかけた戦闘狂の青年は、何かを感じとったのか突然動きを止め、
笛吹から向かって左側の闇に鋭い視線を送った。
「・・・・・・何?」
「来る・・・・・・」
笛吹は痛みをこらえて地面に転がしっぱなしだったライターを手にとり、
左側の闇を照らし出そうとしたが、闇はどんよりと重く、火は闇を振り払うにはあ
まりにも小さすぎた。
「・・・・・・お前視力いいだろ?・・・何か見える?」
「夜目は効くけど、こんだけ暗いとねぇ」
緊張感どころか喜びを含んだ声は、殺戮の対象に巡り合えた嬉しさで弾んでいる。
「あぁ・・・・・・やっぱり・・・何か近づいてくる」
「緑のあいつらか・・・?」
「違うねぇ・・・とても大きい、何かだ・・・」
とても大きい、と聞いて笛吹の頭に何かが引っかかった。
「おい、照明弾持っているだろ?」
「んー、暗くても俺は戦えるよん」
「いいから出して」
声を尖らせる笛吹に、戦闘する気満々の青年は案外素直に応じた。
差し出されたカプセルをベルトに挿したハンドガンに装填しようと左手を持ち上げ
て、初めて笛吹は自分が左手に金色の草を握ったままだったことに気付いた。
「・・・よく落とさなかったな・・・」
奇跡的にも、笛吹が握っていた茎の一箇所以外、血がついている部分はなかった。
今度こそ落とさないようにと、腰ベルトのサイドの装填穴に素早くきれいに差込み、
そして、ハンドガンにカプセルをこめて頭上に向けて発砲した。
カプセルは崖を全部昇り切らず、途中で弾け、光を炸裂させた。
学習能力のあった笛吹は思いっきり目をつぶり、そして徐々にまぶたを持ち上げていった。
「・・・・・・なあなあ、あれってさぁ・・・・・・」
いち早く光に目を適応させた銀髪の青年が、正面を注視したまま笛吹の肘をつついた。
「オレたちの捕獲対象じゃぁないの?」
完全に光に慣れた笛吹の目に映ったもの。
それは照明弾の光に映し出されて黄金色に輝く、のっぺりとした巨人の姿だった。