第1章 APRIL
V
よちよちと歩いて、机に力無く置かれた笛吹の左腕に近づくと、エイプリルはぐにゃりと溶け崩れた。
表面に浮かんでいた色とりどりの花柄模様も消えうせ、本来の薄く白味のかかった透明スライム状の物体に姿を変えたメツク人は、彼女の一挙一動を興味深げに注視する笛吹の左腕に音も無く滑るように上る。
ひんやりと冷たいゼリーのような感触が、左腕・・・・・・そこにはルークが想像していたような無残な傷跡はなく、エッグによる細胞組織の修復促進のおかげで、目を凝らさなければわからないほど一見異常の無い箇所なのだが、そこに分厚くまとわりついた。
このように直接身体に触れてメツク人が治療を行うことを、笛吹は以前から簡単な知識として知っていたのだが、それが故に、自分の左腕の不具合は修復した皮膚と筋肉の下にある神経の問題であるから、一度切り開いて患部に直接触れる必要があるかもしれない、と少し心配していた。
しかしどうも患部に直接触れなくてはならない、というわけではないようである。
期待と興味を篭めた患者の視線と、事務的な教官の視線を浴びながら、エイプリルの身体が発光する。
ひんやり感と取って代わって、春の陽だまりのような光と温もりが、左腕を包んだ。
ヒーリングが始まったのだ。
とても心地よい感覚だった。
左腕だけこたつの中に突っ込んでいるような、眠たげな猫が左腕の上で丸くなっているような、そんな局部的な柔らかな温もりだったが、そのうち腕を伝って脳にまで伝わったかのように、頭がぼんやりしてきた。
ガニメデの自宅の縁側で、日向ぼっこしているようだと笛吹は思った。
意識はちょっとあるけど、眠くて、半分眠っているようなふわふわの状態が気持ちいい。
この心地よいまどろみから抜け出そうと意識を働かせるには、かなりの決意というか意志力が必要なのだけど、なっかなか上手くいかないんだよなー・・・などと、うつらうつらしながら考えていた笛吹だったが、
「私の前で居眠りとは度胸がついたな、笛吹隊長」
耳に冷水を注ぎ込まれたかのような感覚に、笛吹はかなりの決意やら意志力やらを無理矢理総動員させられた。
「・・・失礼しました」
「カースレインといい、君といい、私の前で居眠りをするのがそんなに好きなのかね」
「とんでもないです」
心の底から笛吹は言った。
同じ隊の少年などは、アヴィゲイルが怒りそうなことをわざわざ進んでやりたがるが、笛吹にはこのベテルギウス人の教官に対しては、どうもあの冷たさが苦手で恐れ多くて、そんな反骨精神を抱けなかったのだ。
「思うにこの左手から伝わってくる温かな、ほわっとしたエネルギーの波動が、俺の脳を刺激して眠気を誘発したのではないかと・・・」
「御託はいい。そんなことよりも左腕の具合は?」
白い濁りの混じった赤い目で、部下を一撫でするアヴィゲイル。
首の後ろを幽霊の手で撫でられたような気分になりながら、笛吹は視線を左腕に落とした。
肘周辺を覆っていた熱は去り、エイプリルがするすると離れていくところだった。
ひとまず治癒能力者である彼女の許可を得てから、動かしてみることにしようと、エイプリルの変身を待とうとしたその時である。
突然教官室の重い鉄扉が開いたかと思うと、秀麗な容貌の少年が息を切らせて飛び込んできた。
星柄の黄緑のシャツに、なんともいえないマーブル柄のネクタイを締め、さらにサーモンピンクのハーフパンツというなんともいえない出で立ちだが、普段の彼を知る者に感想を求めたならば、今日はまだ大人しい方だとみな一様に温かい目をすることだろう。
意志の強そうなどんぐり眼で部屋をぐるりと見渡し、笛吹を見、それから笛吹の手元にある半透明の物体のところで視線をとめた。
元から大きな目をさらに大きく見開く少年。
その肩に、「待って〜!」と小鳥がさえずるような声が聞こえたかと思うと、白いふわふわした生き物が、後ろからぴょいっと勢いよく飛び乗った。
「どうしたのブレイズ、ね、どうしたの?いきなり走り出すか・・・あーーっ!」
小動物がふわふわの白い毛を震わせて、突如歓喜の声を上げた。
エメラルドグリーンのつぶらな瞳は、笛吹の傍でアヒルの姿に戻ったエイプリルを見ていた。
同時にアヒルも全身に花柄を浮かび上がらせながら、「あんらまぁ〜!」と、身体を震わせた。
「プリプリなのーー!」
「ブレイズ坊っちゃん!!リーちゃん!!お久しぶりでございます〜!」
喜びの歓声を上げるリーとエイプリル。
それとは対照的に静かなのはブレイズ坊ちゃんことブレイズ・スタンフィールドである。
エイプリルの姿を認めた数瞬、懐かしい友人に会ったような喜びが、確かに大きな瞳に映し出されたのだが、すぐにそれは急ごしらえの仏頂面の下に隠されてしまった。
「どうしてエイプリルがこんなところに・・・」
「あたしは坊ちゃんのことをずっと心配してたんですのよ〜!」
ブレイズの表情の変化に気付いてか気付かないでか、エイプリルは能天気な様子で少年の方へ歩み寄った。
残された笛吹は、初対面のアヒルと同僚が旧知の仲だったことを知って、瞬きしながら両者を見比べる。
「誘拐されたんじゃないかーとか、変な事件に巻き込まれてどこかで泣いてらっしゃるんじゃないかーとか!あたしほんとに心配したんでございますのよー!」
「・・・この僕が誘拐されるなんてヘマするわけないじゃん」と、不貞腐れたようにブレイズは言った。
「そうですともそうですとも!でも坊ちゃんはまだまだ子供でございますし、リーちゃんを人質にとられたら手も足も出ませんでしょう。あたしは坊ちゃんが酷い目にあっていやしないかと毎日毎日心が張り裂けそうでした!」
おいおい泣き出したアヒル。
「プリプリが泣いてるのー!」と、肩の上でリーがもらい泣きし始め、ブレイズは決まり悪そうに口をへの字にした。
「エイプリル・・・その、エイプリルに何も言わず出て行ったことは、僕ずっと悔やんでいたんだ。でも僕が自分の意志で出て行ったことは気付いていてくれたんじゃないかと・・・」
「まぁ80パーセントの確率で、家出だとは思っていましたが」
ブレイズの言葉に、泣き真似をやめてけろりとエイプリルは言った。
それを聞いてギョッとしたのは笛吹。
過去を訊いたことは一度あったが、家が大金持ちだということ以外は上手くはぐらかされてしまったので、触れられたくないのだろうと気を回し、それ以来なんとなく話題にしなかったのだが、まさか家出少年だとは思っていなかったのだ。
そもそも雇う者の身上調査はメディフ社がきっちり行っているはずだ。
まだ子供と呼んで差し支えの無い年齢のブレイズを、しかもABとして雇うにあたって、メディフ社が調べないはずが無い。
親の許可もなく、家出少年を雇うことなど有り得るのだろうか・・・・・・この天才少年なら、その辺の事情を誤魔化すなどわけないのかもしれないが、「ハーフの人権など無きに等しい、というか、無いだろ」を前提に強制スカウトを行ったメディフ社なら、戦力増強のため、少年の家庭の事情など知ってて見ぬふりを決め込むなど十分有り得ることだ。
笛吹は想像の中で『メディフの悪の権化』たる上司にエルボークラッシュをかまし、とどめにアルゼンチンバックブリーガーまでお見舞いしたが、どんなに頑張っても、痛めつけられて泣き叫ぶトリスタンの姿を思い浮かべることが出来なかった。
むしろ「はっはっは!さすが笛吹サン!プロレス技も華麗だ!」と爽やかな風を吹き散らしながらにこやかに起き上がって握手を求めてくる想像の方が容易かったので、笛吹は自分の想像に辟易し、妄想の継続を放棄した。
イメージの刷り込みとは、かくも恐ろしいものである。
勝手にうんざりして落ち込む笛吹はそっちのけで、アヴィゲイルの教官室内では、少年とアヒルの緊張をはらんだ会話がなおも続けられている。
「でもまさかエイリアンバスターに就いてらっしゃるとは思いもしませんでしたヨ!ささっ、家に帰りましょう!」
「嫌だ!」
どんぐり眼を三角にしてブレイズがエイプリルを睨んだ。
「僕はここで働くって決めたんだ!」
「でもエイリアンバスターのお仕事はとても危険でございましょう!」
「それでも僕はここがいいんだ!」
駄々をこねるような少年の言い草に、「坊ちゃん・・・」とエイプリルは何かを言いかけ、そのまま口をつぐんだ。
「いい?僕は強制スカウトに乗ったんじゃなくて、自分の意志でABになったんだ。僕はエウロパには絶対戻らない。エイプリルが何と言おうと、二度と、絶対にね・・・!」
「坊ちゃん・・・」
「第一エイプリルは本気で僕に家に戻ってきて欲しいと思っているわけ?本気でそう思っているの?わかってるはずだよね。僕の判断が正しかったってことが・・・!」
「・・・・・・ええ、そうですとも」
声を荒げる少年に、エイプリルは身体を薄い水色や黄緑色に変色させた。
「ですからあたしもABに協力することにしたんです」
「・・・エイプリル!?」
よほど虚を衝かれたのか、ブレイズが全身に漲らせていた強気のオーラを一瞬で解いた。
「な、何言ってるのさ!」
おろおろと取り乱す少年に、縋るような目をエイプリルは向けた。
「そうしたら、坊ちゃんが怪我しても、すぐに治してさしあげられますでしょう?」
「僕は怪我なんてしない!」と、顔を真っ赤にしてブレイズが叫んだ。
「ちょっと前に行った任務でだって、僕は怪我一つしなかったんだ!知ってるだろ?僕は強いんだよ?!」
「でもこのイケメンのお兄さんは怪我してましたわよ?坊ちゃんも怪我しないとは限らないでしょう」
突然矛先を向けられ無表情に動揺するイケメン笛吹を、ブレイズは「笛吹さんはドジったんだ!僕はドジ踏まないから大丈夫なんだ!」とさっくり斬って捨てた。
「僕のことはいいよ!それよりもエイプリルのほうが問題だ!」
「あたしは何も問題ございません」
「問題あるよ!ABは宇宙開拓のアシストといっても攻撃担当なんだよ?平和とか友好なんてものは程遠い存在なんだよ?たくさん殺すし、殺されるかもしれないんだよ?」
「坊ちゃんこそどうしてそんなところで働きなさるんですか?」
少年が呼吸を一瞬止めた。
「・・・・・・僕はそういうのが好きだから」
吐き出すように言うブレイズを、息を呑んだリーがライトグリーンの瞳で真っ直ぐに見上げた。
小さく囀るような声で自分の名を呼ばれたが、少年はそちらを見ることが出来ない。
足元に憎い仇が転がっているかのように、ただ床を睨みつけているブレイズに、エイプリルは首をぷるぷると振った。
「いいえ、坊ちゃんは争い事が大のお嫌いでした」
「そんなの昔のことだ!!」
顔を上げて、少年は花柄のアヒルに言葉を叩きつけた。
「僕のことはいいんだ!僕はここに居たいんだから、エイプリルは僕になんて構わずにエウロパへ帰れよ!」
叫ぶなり、ブレイズはあたふたするリーを伴って部屋を出て行った。
鉄扉の閉まる残響音が、静まった部屋を重く揺らす。
他の教官室は個体識別センサーによる自動開閉扉なのだが、この部屋だけは演出を狙ってか何なのかはわからないが、レトロな鉄扉なのである。
AB寮の開けてはいけない開かずの間のような不気味さが、この扉にはあった。
勿論、今、この部屋の空間を占める寒々しさは、扉の演出効果にだけあるのではない。
嵐のようにやってきたブレイズがもたらした一過性の騒々しさは、本来の静けさを取り戻したこの空間の異様なまでの冷たさを、置き去りにされた笛吹に再認識させることになった。
そう、この部屋の所有者自身が最大の低温演出効果の担い手なのだ。
ブレイズを追いかけようとした笛吹だったが、そのことを思い出してフリーズする。
蚊帳の外に放っぽり出されていたのは笛吹だけではない。
明るい色彩の少年が消え、灰色壁に群青色の絨毯の寒々しい部屋には、クーラーが効いていないにも関わらず、ひんやりとした雰囲気が漂っている。
後ろを振り返るのが、ただただ怖い。
おそらくこのメンバーの中で最もお喋りであろうアヒルは、物憂げな目で扉を見つめたままである。
俺か?俺がこの沈黙を破るきっかけを作らなくちゃならないのか?
数秒煩悶した挙句、黙る冷気の源に耐え切れなくなった笛吹は、意を決して上司に話し掛けた。
「あ、あのー、その、教官は、ブレイズが彼女の知り合いだとご存知だったのですか・・・?」
「そうだ。スタンフィールドのああいった行動も予測の範疇だった」
想像していたよりも、はるかに冷酷でない返答がアヴィゲイルの口から飛び出した。
実はこのとき、アヴィゲイルは、故郷に残してきたヤンチャな息子に思いを馳せていたのだが、そんなことを笛吹が知るはずも無く、ただ「はぁ」と顎を撫でながら気の利かない返事を返しただけである。
私の息子も腕白で手のつけられない困り者だったが、今はどうしているだろうか・・・。
仕事の鬼が、任務以外のことを想ったのはほんの一瞬のことだった。
白く濁りの入っている赤い眼から感傷を消し去ると、いつものツンドラの凍土を想起させる口調で笛吹に言う。
「それよりも笛吹隊長、左腕は完治したようだな」
「えっ・・・あぁ!」
笛吹はここで漸く気付いた。
自分が無意識に、左手でもって顎を撫でていたことに。
恐る恐る左手を、ぐー、ぱーと開閉させたが、痛みどころか違和感も感じられない。
腕を折り曲げたり、ぶんぶん振り回したが、全く以前どおりだ。
少しの麻痺感もなく、隅々まで感覚は行き渡り、自分の意志に沿って筋肉が動く。
「教官、このとおりです・・・!」
「それは結構」
頬を紅潮させながら報告する部下に、アヴィゲイルは事務的に頷いた。
そんな冷めた反応には構わず、テンションの上がった笛吹は、依然ぼーっとしたままのアヒルに「本当にありがとうございます」とぺこぺこ頭を下げている。
なにせ得体の知れない機械を埋め込む手術を受けずに済み、それどころか、ほかほかと暖かい気分に浸っているうちに完治したのだ。
こんなに心地よい治療があろうか。いや、無い。
ここしばらく笛吹をへこませていた悩みを完全に払拭し、地平線まで続く花畑の真っ只中に立っているような気分を、平和の妖精はもたらしたのである。
しかしそんな幸せ気分が、笛吹に長く続くわけも無く。
「これで任務に支障は出まい」
「え、はい」
「それでは今から早速6階のブリーフィングルームに直行してくれたまえ。次の任務の説明がある」
一切の動きを止め、笛吹はアヴィゲイルのセリフを頭の中でもう一度反芻させた。
「・・・・・・任務、ですか?」
「任務だ」
笛吹の額を冷や汗が流れた。
そのとき、やっと我に返ったエイプリルが、笛吹たちの方を振り返り、遅まきながら、がーがー喋り始めた。
「あらまぁあたしったらヤだわー!ぼーっとしちゃってえらいスミマセン!最近世の中って何でも流れが速いでしょ?あたしくらいの歳になると、心はついていこうと思っても頭が追いつかないのよ〜!今も固まっちゃって動けなくてなんだかもう歳ねーといってもまだまだメツク人にしてみればあたしはまだ若い方なのよこれでも!アヴィゲイルさんよりは長く生きてますけどピッチピチのギャルなんでございますのよーって、こんな姿だから笛吹くんには判らないでしょうけどねぇ、残念ねぇ〜!あら?笛吹くんどうしたの?顔色が悪いわよ?まさか左手が動かないとか?動く?あらそう、そりゃ当たり前よー!あたしが治療したんですからねぇ!あたしが手がけた怪我が今まで治らなかったことなんて無いのよーここだけの話!あれはいつだったかしらー、85年ほど前だったかしらねぇ、あたしの目の前でうさぎが切り株にころり転げて首の骨を折って瀕死になって、そのときは・・・・・・」
「エイプリル、少し黙りたまえ」
口を挟む隙を与えないオバチャン喋りに、たまりかねたアヴィゲイルが無理矢理切り込みをかけた。
しかし絶対零度の声にも臆することなく、花柄のアヒルは水色の肌の教官を「まー!」と怒って突き放した。
「たまえってあなた、あたしは指図を受ける立場じゃないでござんしょ!今からがいいところなんだから水を差さないで頂戴よ全く!それでね、どこまで話したかしら、えーとそうそう、その瀕死のうさぎを助けようとしたのよ、そしたらそのうさぎは実はうさぎじゃなくて、うさぎの姿をした・・・・・・」
「エイプリル」
「もーっ、なんでございますか?!」
「今から笛吹は用事がある。急いでいるのだが」
「えぇっ!あらあらあらー!そうだったのー!?気付きませんでどうもどうもすみませんでございます〜!」
アヴィゲイルが呼んだ武装警備兵に抱っこしてもらうと、エイプリルは朗らかに笑いながら部屋を出て行った。
残されたのは、無表情の黒衣の青年に、水色の肌のベテルギウス人。
笛吹にしては珍しいことに、今の状況を「寒いー」だとか「凍えそうだ」などと考える方に思考が働いていない。
ただ、今は3つのことで頭が一杯一杯だったのだ。
ブレイズがどうしてあんな態度をとったのか。
今度の任務はどういったものなのだろうか。
そして、エイプリルが出遭ったうさぎの正体は何だったのだろうか・・・・・・。